【AIR JORDAN 1】伝説のバスケットボールシューズ

1984年にNBAデビューしたマイケル・ジョーダンの1stシグニチャーモデルとして誕生したCHICAGO BULLSカラーで構成されたAIR JORDAN 1。

AIR JORDAN 1を手がけたのはPeter Moore氏です。adidasの代表的な三角形のパフォーマンスロゴをデザインしたことでも有名なデザイナーです。

AIR JORDANのウィングマークはPeter Moore氏が飛行機での移動中に見た、アメリカ空軍のパイロットウイングのレプリカにインスピレーションを受けてデザインされたと言われています。

大学時代マイケル・ジョーダンはCONVERSEの“PRO-STAR”や“FASTBREAK”を着用し、1984年のロサンゼルスオリンピックの選考会ではadidasのFORUMを着用していました。

また、同大会ではCONVERSEの1社提供の大会だった為、adidasやNIKE製のシューズは身に着けられずに全選手がCONVERSEを身に着けてプレーしていました。

※こちらは当時13足のみ製作された特別仕様のモデルです。

大学時代の活躍からNIKEは契約を持ちかけたそうですが、ジョーダンは元々"adidas"と契約がしたかったという話があります。

ジョーダン本人がNIKEとの契約に乗り気でないことで契約は困難を極めていましたが、
NIKEは彼のシグネチャーシューズを作ること約束。更には破格の契約金を積み契約を勝ち取ったそうです。

NIKEは契約からNBAの開幕までの短い期間で、"AIR SHIP"にCHICAGO BULLSカラーの組み合わせでプレシーズンマッチにて着用させていました。

AIR JORDAN 1の初期カラーは白×赤×黒の通称“CHICAGO”カラーと思う方は多いかと思います。しかし"NIKE"がジョーダン本人のために用意したカラーはBULLSカラーの通称“黒×赤(BRED)”でした。


初めてAIR JORDAN 1の配色を見たマイケル・ジョーダンが「これは履けない。悪魔の色だ。」と言い張って履くのを拒否したというエピソードがあります。

(※ノースカロライナ州立大学のチームカラーが黒×赤だったという説あり)

当時のNBAでは「白ベースかつユニフォームに合った色の靴を着用しなければならない。」という規定がありました。

NIKEは規定を破りジョーダンに着用させ「その度、罰金5,000ドルを払い続けた。」と話題になり結果的に大きなプロモーションとなり知名度を高めていきました。

その使用禁止ルールに対応するために誕生したのが通称“CHICAGO”と通称"つま黒"と言われています。

 

今やJORDANブランドの象徴としてお馴染みの「JUMPMAN」の元となった写真では"つま黒"を着用しています。

※フラッシャーにはモデルの詳細について説明書きされています。(かなり貴重です)

 

また、使用禁止された当時にこんなCMが放映されていました。

「NBAはジョーダンにシューズの着用を禁止したが君たちが履くことを禁止できない」と謳った内容のCMは当時話題となりかなり注目を浴びたと言われています。

今やJORDAN BRANDの始まりの1足で、スニーカーカルチャーを作り上げたといっても過言ではない伝説のモデルです。

BASEMENTのガラスケースにて展示してありますので、是非とも一度足を運んで実物をご覧ください。